こんにちは! びるこです。
ブログ訪問ありがとうございます。
在宅医療のコラムを読んで共感した「治す」のではなく「支える」ということについて今日は書いていきたいと思います。
ガジュマルを死の淵に追いやってしまった
こちらの写真は私が3年ほど育てているガジュマルのガジュさんです。
お分かりいただけますでしょうか、根っこがパッサパサなのです。
点滴のようにさされた活力剤が痛々しい。
ガジュマルといえば、あのぷっくりとした根っこがチャームポイントです。
【参考画像】
なんだこのプリっとした根っこは!! うらやましい!!
大切に育てていた筈だったのですが、昨年から調子が悪くなり一時期葉っぱ3枚だけになりました。
焦って土をキレイにして水分補給し、活力剤を投与した所元気に葉っぱが沢山出てきました。
やっとガジュさんから生命を感じるようになりましたが、水分と栄養不良で死の淵に追いやったことは問題です。
治せないことは医療の敗北ではない
ガジュさんを延命出来たことが私は嬉しかったのですが、今日考えていきたいのは「自然な看取り」についてです。
私が無理やりガジュさんを延命したのは、私自身が「枯らせてしまった」という気持ちになりたくなかったからです。
寿命100年~300年といわれるガジュさんですので、まだまだ寿命ではないため治療最優先と判断しました。
ガジュマルはさておき、人においては終末期の栄養管理や水分補給は現状問題になりやすい部分で、無理やり水分や栄養を与えて延命することが果たして患者さん本人のためになるのかということを考えなければなりません。
ここからは 医療法人 ゆうの森たんぽぽクリニック 永井康徳先生が書いているalfresa newsのコラムを引用しながら書いていきます。
人は亡くなる前に食べられなくなることにより、脱水状態となって眠り時間が多くなり、動作能力が低下していきます。
それは、人が自然に亡くなる過程であり、老衰死もこのような過程をたどります。
食べられなくなることは自然なことなのに、病院で検査をして点滴をして、胃ろうを作るのか経鼻チューブで栄養補給をするのか・・・なんてしているうちに自然な看取りから遠ざかっていくことが日本では往々にして起こります。
実は私の祖父も今同じような状況にあり、心苦しく思っている状態が数年続いています。
「何もせずに自然に看取る」
という選択肢を主治医が提案できるか、患者さんやその家族が選べるかどうかが大切なのです。
医療側も「治せないことは医療の敗北である」と考えないようにしなければなりません。
治し続けた末の死ではなく、治せない病や死などに向き合っていくこと
私の働いている病院でも80代90代でまだまだ治療を続けている方がたくさんいます。
本当に人生100年時代なのだと実感しますし、高齢化により多死社会が到来すると言われていることも肌で感じるようになりました。
自宅看取りの選択肢を一般の人々にも伝えること
多死社会の課題解決は「自宅での看取りを日本に取り戻す」ことです。
日本では約8割の人が病院で亡くなっていますが、これは世界的に見ると特別なこと。介護や福祉の先進国であるオランダやスウェーデンでは40%前後と日本の約半分であり、他国と比べても日本は病院看取りの割合が高い国なのです。
日本の現状は他国から見ると異常ともいえるかもしれません。
現代医療は生かし続けることを可能にしてしまいます。
私のような若い世代が自宅での自然な看取りを一般的と捉えて、親世代ともしっかり話し合っていくことが大切だなとしみじみ感じます。
Not doing,but being
はてなブログにも「Not doing but being」のタイトルでブログを書かれている訪問診療医の先生がいらっしゃいます。
いつも勉強させてもらっています。
ホスピスの母と呼ばれるシシリー・ソンダース博士の言葉なのだそうです。
Doing 施す医療=治療や投薬
Being 支える医療=共に歩む
施すのではなく支えるためには、とにかく聞くことです。
薬剤師にも「聞く」ことはできるので、治療の継続が悩ましそうな患者さんのベッドサイドにお邪魔してはただただ話を聞くということもしています。
看護師さんのコミュニケーション能力にはまだまだ及びませんが、薬剤師にも他の医療従事者にも話しやすい環境を作っていけたら良いなと思って働いています。
まとめ
- 多死社会に向けて、支える医療について考えることが大切
- 支えるために「聞く」ことは薬剤師にもできるし、誰にでもできる
- 家族でしっかり話し合おう
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ガジュさんが長生きしますように。